2021.4.5、母が無くなりました。
母は早くに私を産み、早くに離婚をして女手一つで私を育ててくれました。
よく言うデキ婚で別れたってやつです。
でもよく片親で見るお金で困った………というエピソードもなければ、片親で寂しい…と言うこともありませんでした。
お金に関しては母がしっかりしていたのできちんと堅実に貯め、私を専門学校まで出してくれました。
女手一つと言いましたが、家は母の実家に帰り祖父母が日中は居てくれたのでちょっと違うのかな。
家は裕福ではありませんでしたが畑で走り回って、遊んで…幸せな幼少期だったと自負してます。
今よりも片親というものが理解をされず、子供の私には分からなかったですが悩むことも多かったでしょう。
しかし弱音を吐かず、気丈に厳しく育ててくれたと感謝しかありません。
プライドが高い母でした、厳しい状況が多々あっただろうと親になった今なら分かることがいっぱいです。
学校でのイベント、父の日の授業参観。母親の参加は1人もいないにもかかわらず、1人母親で参加しに来てくれたり。
反抗期をこじらせた私が、家庭の厳しさに反発をして家出をした時。私の子供のワガママな主張にも耳を傾け謝ってくれ、そのまま一人暮らしを許してくれたり。
私が結婚をして子供を産む時、何一つ反対も肯定もしなかった。「私も好きに選んだ人生をしてきた、だからアンタがきちんと決めなさい」とどちらに転んでもいい助言をくれた。でもきちんと私が決めたことに関しては支援はしてくれたり。
…………上げていくと感謝ばかり。
それなのに…親孝行なんてひとつもできなかった。
死に目にも会えませんでした。
迷惑や心配だけなら人一倍かけました。
あれをすれば良かった、もっとこうすれば良かったばかり。
祖母から涙声で「ビックリしないでね」の一言が一言から伝えられた訃報。
それからずっと泣き腫らしてしまいました。
落ち着く為にほかの事をやったりしても手がつかず。
気持ちの整理のためにこの文をメモに書いています。
どこかに載せるかは分からないけど、後で読み返して思い出したい気持ちや言葉があると思うから…どこかしらには上げようかなと思います。
ここまで付き合って読んじゃった人は物好きですね、拙い文章で申し訳ない。
母は癌を患っていて、それを聞いてから覚悟はしていました。
…していたけど、受け止められるかは…やはり別ですね。
夫ともあれもしなきゃ、これもしなきゃと今は送る準備を進めています。
日本人の不幸があった近い人を忙しくさせるって風習、今の私には救いです。
何も無いと考えてしまってまた涙腺が爆発してしまう。
体調が悪くなってからも私の心配をしてくれていた母。
私は目に持病があるんですが…それをすごく心配してくれていました、そして謝られました。
祖父母もまだ元気で、最後に見届けたかったのにそれを私に背負わせてしまうのが辛いとも言っていて。
ここで生まれて初めて母の弱音みたいなのを聞いた気がします。
多分今から半年くらい前です、聞いたのは。
母が私の家に来ると、決まってその日はめいいっぱい2人でお酒を飲みました。
お酒を飲んだから出た弱音だったんですかね。
通夜と告別式の日程が決まりました。
今はまだ会えていない母ときちんとお別れしてこようと思います。
会ったら泣いてしまうかもしれない。
でも今は我慢することなく泣く時期だとも思うので、我慢せずに泣いてこようと思います。
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